「私はこれに傷ついたんだな」って気付くと心は癒される
3月6日、夫が休日だったため、久しぶりに昼から遠出して県内の神社までドライブ。
日が暮れるころ帰宅し、疲れたので寝て、起きたら7日になっていた。
寝ぼけ眼でトイレに行くと、なぜか子供のころの記憶が出てきた。
子供のころ、なにか悪いことをしたら玄関の外に閉め出されて、どんなに泣き叫んでも開けてもらえないっていう、今では虐待になることをされた。
トイレやシャワーのときに昔の記憶が襲ってきてすごく嫌な気持ちになるっていうのは日常茶飯事なんだけど、今回は少し違った。
「私はうちの子ではないんじゃないか」「私は愛されていないんじゃないか」って気持ちがずっと心の奥底にあるのだが、「この気持ちはこれのせいではないか」という気付きが一緒に出てきたのだ。
驚いたが、なぜか確信めいていた。
悪いことをしてないのに怒られたわけではない。「やっちゃった」とか「やりすぎちゃった」という気持ちがあった。なにか悪いことをしたんだと思う。
それでもこの罰は嫌だった。
謝っても許してくれない、私の言い分を聞いてくれない。
靴も履かずに閉め出されて、鍵をかけられて、冷たくなっていく手足。
愛している者にこんなことができるのか?いや、できるはずがない。私は愛されていないんだ…
…そう思ったに違いない。
やったことに対して罰が大きすぎたのだ。
こんなこともあった。
妹とふたりで閉め出されたとき、妹がそのまま家出しようとした。
私は驚き焦って「お父さん!〇子がどっか行こうとしてる!」と玄関を叩いた。父は連れ戻したが妹は「どうせ入れてくれないんでしょ!?」と怒っていた。
あのときは突飛なことする子だなと思ったけど、今思えば、あれは妹のプライドが許さなかったのだ。閉め出すような家なんてこっちから出て行ってやると。こんな扱いを受けるような私ではないと。
やったことに対して大きすぎる罰は人の尊厳を傷つけるのだ。
私はなにか悪いことをしたんだと思う。
それでも私にとっては罰が大きすぎたし、それで私の尊厳が損なわれ、心が傷ついたんだなと気付いた。
3時間ほど経つと、なんか気持ちが楽になってきた。
「私はこれに傷ついたんだな」って気付くだけで、心は癒されるのだと知った。
また1日経過すると、不思議な気持ちになってきた。
「私は愛されていないのではないか」「役に立たなくては生きられない」
そんな気持ちがずっとあったけど、もう私の持ち物ではない気がしてきたのだ。
高1で鬱になり、39歳の今まで、ずっと囚われてきたのに。
なんというか、与えられた罰が大きすぎるものであり、その過分な罰で私の尊厳が傷つけられたなら、今まで「当然、私に与えられるべき罰」と思っていた前提が崩れるし、それで傷ついた私の心は必要以上に傷つきすぎていることになる。
また、親であろうとも人の尊厳を損なう行為を私は断じて受け入れない。同居している姪には絶対にしないように厳しく言っていく。
なんというか、情報を修正していくような感じだ。
完全に消えたわけではない。感情的には特に。
けれど気にならない。目に入らない。
そんな気がする。