お手本は旦那様。

うつ、パニックを経験してやっとがんばることをやめた。「自分を知る」を続ける39歳女性の記録。

『他人と違う』ということ

ここ数日、何とも言えず心がざわざわ、しています。

おみくじで『焦るな、騒ぐな、落ち着け』と言われたので、ただそれを『感じる』ということをしています…が…落ち着かず…これを書いています。

心屋では『言ってみるセラピー』をやるそうですが、私はそれに加えて『書いてみるセラピー』をやっている感じです。なので、自分が書いた文章を後から何度も読み返して、泣いたり、冷静になってみたり、しています。

昨日の夜は落ち着かな過ぎて、つい、『損したくない』になってしまい、どうにかして失業給付の給付延長ができないか、残日数の計算をしてしまいました。その結果、週5働くという、不可能じゃないけど頑張らないと達成できない現実が浮き彫りになり、『どうにかなる』と『いやいや無理でしょ』の間で葛藤したりして。朝の7時頃やっと寝られて、起きてから我に返りました。

私の行動を制限していた足の怪我が治りそうになっているのに、今度は腰が痛くて、「あぁ、もう動くなってことなんだろうなぁ」と思いました。

 

でも、このざわざわはいい作用もあります。ブログの執筆が進んだことです。

『~しなきゃ』と焦る気持ちは心や体を急げ急げと駆り立てます。アクセルを踏んでいる状態です。車の運転でもそうですが、速度が上がれば視野が狭くなります。その結果、嫌なものしか見えなくなったり、嫌な物の見方ばかりするようになったり、イライラしたり、態度や言い方が刺々しくなっていきます。棘は触れた者を傷つける。他者でも自分でも。他者を傷つけたくないし、傷つけてしまって自分が嫌な気分になるのも嫌だし、後の自分がフォローして回るのも面倒。だから棘を自分に向けてしまうの一番楽。他責ではなく自責する人の考え方はこういうことだと私は思います。棘をどうにもできないなら、自分を傷つけておくのが、楽なんです。

こういう理屈で意識を自分に向けると、執筆が進みます。このブログが自分のことを書いた内容であるし、問題意識が高い時だからです。

作家の誰だったか忘れましたが、「執筆には怒りが必要だ」と言っていました。それはつまり、問題意識のことだと思います。だからもし私が文章を書いていく人間なら、このざわざわした気持ちと付き合っていかなくてはいけないのであって、いい友人にならなければならない。

普通の社会人が普通にやっている、1日8時間・週5勤務がきつくてできなくて、社会人失格だった私が結婚したら、主婦はパートが当たり前の世界になって、驚き感動したことがあった。要するに肩書の話ですね。それと同じように、私が『物書きだ』ということになったら、世の中的には面倒くさい部類の私の在り方は当たり前ということになるのだろう。

心理学の講義を受けている時に先生が『芸術家は、他の人とは違うから芸術家なのであって、他と違うということ全てを問題だと思わなくていい』と言っていた。もし芸術家が『自分は普通じゃないことが辛い』と訴えてきたとしても、治療家がやることは『普通』にしてあげることではなく、そんな自分を認めて生きていくサポートをすることだと思う。

今の世の中は『個性を大切に』とか『オンリーワンの自分』とか言うけれど、それは端的に言えば『周囲と違う』ということだ。別に『みんなと同じフィールドにいて、自分がその中で一番優秀だ』ということではない。それはとても孤独だ。いや、孤独だからこそ『みんな違って、みんないい』ということが大事だ。それは周囲と違う自分を癒す言葉だ。そして私自身がそれを心底肯定して、そういう行動をしていくことで、すぐ隣にいる『周囲と違う』彼・彼女と会話ができる。

洗浄恐怖を持っていた彼、突然に子供を失った彼女、事故に遭って長いリハビリに苦しむ彼、若くして記憶障害になった彼女…『周囲と違う』『今までの自分と違う』ことに苦しむ人達が少しずつ話をしてくれて、次に会う時からは心を開いた笑顔を私に向けてくれた。

私は『日常』にはほとんど役に立たない。だが、『人生の緊急時』には役に立つ。

『他人と違う』ことは時に他人を救う。

その度に、私は私の生きる価値を見出すのだ。